2013年7月4日木曜日

できる企業ができる範囲で頑張る

目先で実施可能な簡単な策もあります。ISOのように、若い世代への所得移転や子育て世帯への配慮を掲げる企業の守るべき基準を作って普及させることです。強制ではなく、あくまで「できる企業ができる範囲で頑張る」のを顕彰し、消費者に対するイメージアップや人材確保につなげてもらおうという趣旨です。NPOか何かがさまざまな観点から企業の若い世代への所得移転の配慮のランク付けをし、客観的な認証を与え、マスコミもそのような努力を積極的に報道する。それだけで、企業の活動は長期的に大きく変わってくると思います。すべての企業に無理にもっと人件費を払えと強要して倒産などを増やしてしまうのは愚の骨頂。そっちの話は政府の最低賃金制度の徹底に任せつつ、民間としては人件費を増やす意欲と余裕のある企業だけを先に行かせ、それを宣伝させ、結果としてそういう従業員を重視する企業に若者が集まる土壌をつくるべきなのです。

ISOだって必ずしも儲かっている企業だけがやっているわけではない。小さい会社になればなるほど、経営者(=同族株主)の志の違いが行動の違いになっています。こっちの話も同じこと、志の高い経営のできる会社に先に行って実践してもらうことが大事なのです。「言い訳」付与と「値上げのためのコストダウン」で高齢者市場を開拓さて今までの議論では、控えめに保守的に、企業の売上総額自体はこれまでと変わらないままという前提で、そういう中でも若者への支払い分を増やしていった方がいいのだということを申し上げてきました。ですがもう一歩進んで、高齢者が死蔵している貯蓄を積極的に取りに行く、つまり高齢者にモノやサービスを買わせるということを、戦略的に追求することも可能ではないでしょうか。

それにより維持ないし増加できた売上を若い世代への給与に回せれば、内需はさらに成長し税収も安定し、高齢者の支えにもなります。これこそ高齢富裕層から若い世代へのとても有効な所得移転です。これまでも何度か触れてきましたが、最近になって史上最高益を更新した任天堂、ユニクロ、東京ディズニーリゾートの共通点は、高齢者も若者同様に買い求める商品、すなわちヒートテック、東京ディズニーシーを開発したということです。いずれも高齢者でも使いやすい、楽しみやすい仕様になっているにもかかわらず、年寄り臭いイメージがない。

孫のためだとか、値段の割には質がいいとか、高齢者の好みそうな言い訳もくっついています。同じように、自宅の耐震改修や成人病が改善する温泉旅行、貯金代わりに買って貯蔵できる高級酒や書画骨董、健康にいい無添加食品など、高齢者市場が拡大しうる分野はまだ無数にあります。彼らが中心に保有している日本人の金融資産の一%、一四兆円でも企業努力でモノ購入に向けさせることができれば、政府の景気対策の何倍もの効果があるのですよ。オレオレ詐欺だけにこの市場を開拓させておくというのは、余りに惜しいことです。それでは、先はどもさんざん語って参りましたが、車だの住宅だの電気製品だののような、一人の消費者が買う量が限定されているような商品、それも現役世代を中心に相手にしている商品の場合はどうなのでしょうか。

たとえば自動車産業。全体的には不振の中、よく売れているのがハイブリッドカーで、レクサスブランドの売れ行きも非常にいいそうですね。これらの成功は、すでに何でも持っている高齢者に買い替えの「言い訳」を与えることがいかに重要かを示しています。つまり彼らは若い頃ほど車に乗るわけではないので、少々車が古くなったとて、買い替えずに我慢しておくこともできないわけではありません。ただ実際にはお金も十分あるので、何か「これは決して無駄遣いではない」という言い訳さえ与えてもらえれば、モノを喜んで買いに走るわけです。ハイブリッドカーの場合の言い訳は実利面と理想面と二つもあります。前者がエコカー減税や買い替え補助金であり、後者が「地球環境を考えるのはいいことだ」という大義名分です。







2013年3月30日土曜日

時間のどこを切り取るか

見た瞬間、「ああ、いいな」と感じさせる写真があります。「ねえ、見て、見て」と語りかけてくるような写真です。こういう写真は、主題がハッキリしていて、必要以上に遠近感を強調したり無意味なデフォルメもしていません。構図も自然で、見ているうちに必ず二つ、三つは、「なるほど」と思えるものが見えてくるものです。主題を盛りあげる何かがあるのです。同じカメラで同じ人物や風景を撮っても、でき上がった作品は人それぞれで違います。作品の良し悪しを決めるのは、その写真が語りかける言葉数の違い、伝わってくる情報量の差とでもいいましょうか。では、その相違はどこからくるのでしょう。

私たちは、刻々と過ぎてゆく時間の中に生きています。映画やビデオは時間を連続して記録することができますが、写真は一秒の何十分のI、何百分の一という速さで時間を切り取ります。一瞬を切り取ることで、その前後まで伝えなくてはいけません。映画のフィルムには流れている時間の瞬間、瞬間が連続して写っていますが、写真はそのうちのわずか一コマにすぎません。しかも、そのたった一枚で、前後何十枚ものコマに写っているものを想像させられなければなりません。つまり、あなたの写真の腕は、無限にある「瞬間」の、どのIコマを抜き出すかで決まるわけです。その「どこ」を見つけ出すかが、それぞれの感性ということになります。

たとえば、芭蕉の有名な句「古池や蛙飛びこむ水の音」を一枚の写真にするとします。まず頭の中に、蛙が池に飛び込む直前の動作から、水中に小さな音をたてて飛び込み、あとに水の輪が静かに広がってゆくまでの一連の動きが思い浮かびます。映画であればこのシーンは約五秒、一秒間に二十四コマとして百二十コマ、百二十枚の写真になります。この百二十枚のコマのどの一枚を取り出せば、この句にもっともふさわしいイメージの写真になるかです。蛙が空中を飛んでいるときは姿が見えますが、音がしたときにはもう見えません。波紋が広がっているだけの写真では、飛び込んだのが蛙だか小石だか分かりません。この句の情景を伝えるには、やはり蛙が水面に入る寸前の、両手両足を伸ばした姿がふさわしいように思います。次の瞬間の、ポチャンという音とともに、ゆっくり広がる波紋の様子まで想像できるからです。

しかし、写真を撮るときは、この一連の動作を見てから撮るわけではありません。現在進行中にシャッターボタンを押さなければならないのです。流れの前後を読んで、「いま」という瞬間を見つけ出すのです。ある写真からは、前後の動きや時間、会話、風や雨の音、そして匂いまでも伝わってきます。またある写真からは、喜びや悲しみ、怒りの声まで伝わります。そういう写真こそが、良い写
真なのだと思います。写真には、言葉では言い表わせない微妙なニュアンスがまだまだたくさんあります。「良い写真」の背後には言葉にできない何かが山ほどあるのです。ちょうどバックグラウンドミュージックのように、見えないけれど聞こえる何かが流れているのでしょう。

では、この写真から湧き出てくる「何か」の発信源は何でしょうか。筆者は、写真に写った被写体からは、常に音のようなものが発信されていると考えています。音といっても、言葉であったりメロディーであったり、あるいは情感のような、何やら気持ちをつき動かす、波動のようなものです。この「音」が聞こえれば良い写真、聞こえなければ撮影者の腕はイマイチ、と考えています。自分の好みに合った、気に入った写真だけではなく、見る人に怒りや苦しみを訴える音を発信している写真も良い写真なのです。たとえば世界中から送られてくる悲惨な戦争の写真や、飢餓で棒のように痩せ細った子供たちの写真がそうです。