2013年3月30日土曜日

時間のどこを切り取るか

見た瞬間、「ああ、いいな」と感じさせる写真があります。「ねえ、見て、見て」と語りかけてくるような写真です。こういう写真は、主題がハッキリしていて、必要以上に遠近感を強調したり無意味なデフォルメもしていません。構図も自然で、見ているうちに必ず二つ、三つは、「なるほど」と思えるものが見えてくるものです。主題を盛りあげる何かがあるのです。同じカメラで同じ人物や風景を撮っても、でき上がった作品は人それぞれで違います。作品の良し悪しを決めるのは、その写真が語りかける言葉数の違い、伝わってくる情報量の差とでもいいましょうか。では、その相違はどこからくるのでしょう。

私たちは、刻々と過ぎてゆく時間の中に生きています。映画やビデオは時間を連続して記録することができますが、写真は一秒の何十分のI、何百分の一という速さで時間を切り取ります。一瞬を切り取ることで、その前後まで伝えなくてはいけません。映画のフィルムには流れている時間の瞬間、瞬間が連続して写っていますが、写真はそのうちのわずか一コマにすぎません。しかも、そのたった一枚で、前後何十枚ものコマに写っているものを想像させられなければなりません。つまり、あなたの写真の腕は、無限にある「瞬間」の、どのIコマを抜き出すかで決まるわけです。その「どこ」を見つけ出すかが、それぞれの感性ということになります。

たとえば、芭蕉の有名な句「古池や蛙飛びこむ水の音」を一枚の写真にするとします。まず頭の中に、蛙が池に飛び込む直前の動作から、水中に小さな音をたてて飛び込み、あとに水の輪が静かに広がってゆくまでの一連の動きが思い浮かびます。映画であればこのシーンは約五秒、一秒間に二十四コマとして百二十コマ、百二十枚の写真になります。この百二十枚のコマのどの一枚を取り出せば、この句にもっともふさわしいイメージの写真になるかです。蛙が空中を飛んでいるときは姿が見えますが、音がしたときにはもう見えません。波紋が広がっているだけの写真では、飛び込んだのが蛙だか小石だか分かりません。この句の情景を伝えるには、やはり蛙が水面に入る寸前の、両手両足を伸ばした姿がふさわしいように思います。次の瞬間の、ポチャンという音とともに、ゆっくり広がる波紋の様子まで想像できるからです。

しかし、写真を撮るときは、この一連の動作を見てから撮るわけではありません。現在進行中にシャッターボタンを押さなければならないのです。流れの前後を読んで、「いま」という瞬間を見つけ出すのです。ある写真からは、前後の動きや時間、会話、風や雨の音、そして匂いまでも伝わってきます。またある写真からは、喜びや悲しみ、怒りの声まで伝わります。そういう写真こそが、良い写
真なのだと思います。写真には、言葉では言い表わせない微妙なニュアンスがまだまだたくさんあります。「良い写真」の背後には言葉にできない何かが山ほどあるのです。ちょうどバックグラウンドミュージックのように、見えないけれど聞こえる何かが流れているのでしょう。

では、この写真から湧き出てくる「何か」の発信源は何でしょうか。筆者は、写真に写った被写体からは、常に音のようなものが発信されていると考えています。音といっても、言葉であったりメロディーであったり、あるいは情感のような、何やら気持ちをつき動かす、波動のようなものです。この「音」が聞こえれば良い写真、聞こえなければ撮影者の腕はイマイチ、と考えています。自分の好みに合った、気に入った写真だけではなく、見る人に怒りや苦しみを訴える音を発信している写真も良い写真なのです。たとえば世界中から送られてくる悲惨な戦争の写真や、飢餓で棒のように痩せ細った子供たちの写真がそうです。