2014年12月8日月曜日

「「国税」の威光」 

「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ぶ」(日本国憲法第30条)このように税金を納めることは、教育(同26条)、勤労(同27条)と並んで「国民の三大義務」のひとつである。とはいえ、自ら進んで納税することによって国家や社会に役立とうという奇特な人を除いて、多くの人は、できれば税は払いたくないに違いない。

ところで、租税とは「国家または地方公共体が一般経費の財源調達のために、個別的な反対給付なくして、民間経済から強制的に徴収する貨幣または財・用役」である。国家権力を背景に強制的に徴収するものだから、納税の義務から逃れることはきわめて難しい。とりわけ、企業を通じて所得税を源泉徴収されるサラリーマンなどは、ほとんど不可能といってもいい。

だが、所得を自ら税務署に申告する自営業者、政治家、法人などは、必ずしも不可能ではない。それ故に、少ながらぬ人たちは脱税を試みようとする。しかし、国民の「三大義務」のひとつを簡単に免れてもらっては、徴税当局の浩券にかかわる。多くの国民がまじめに納税しているのに、一部の人たちが脱税しているのでは、国民の納税意欲も薄れざるを得ない。そこで、脱税側と徴税当局の虚々実々の戦いが行われるのである。

東京地検特捜部は2000年7月11日、経営コンサルタント会社「ネオギルド」の実質的代表者の鈴木照次同社元監査役ら三人と顧客側の有名芸能プロダクション三社を経営する社長の計四人を、法人税法違反(脱税)の疑いで逮捕した。手口は、芸能プロ三社がネオギルドに架空のコンサルタント料を支払ったように見せかけて経費を水増しする方法で、97、98両年分の三社の所得約6億8000万円を隠し、約2億5500万円の法人税を脱税したという。

直接、摘発に動いたのは東京地検だが、実は東京国税局が事前にこの事件を調べて地検に告発していたのである。だから、これは国税と検察の「合作事件」といえよう。この事件では、逮捕された四人のほか、東京の元有名映画館経営者と兵庫県姫路市の資産家の二人も所得税法違反(脱税)で告発されている。

一般に「捜査三権」と呼ばれる。警察、検察、そして国税のことだ。資本主義が成熟し、社会の仕組みが複雑になるにつれて警察よりも検察の力が強くなる。とりわけ時の権力を含む政界が絡む事件となると、検察の出番が多くなる。さらに社会が発達し、情報化が進むと、全国民の金に絡む情報を握る国税が力を増す。

東京、大阪両地検の特捜部には財政経済班があるが、金の動きが複雑な事件では国税の協力が欠かせない。また、国税は臨検、家宅捜索、証拠物件押収などの強制調査権はあるものの、逮捕権まではないため、捜査を完結させるには地検に告発して、地検の出動を求める必要がある。国税と検察が合作するのは必然の成り行きなのだ。いずれにせよ、国税は単なる事務的な徴税機関ではなく、強力な捜査機関でもある。

ところで、この「ネオギルド事件」、脱税指南グループ側は元文相や現職の法相(当時)ら政治家の秘書三人に計約3400万円の「紹介料」を支払って、顧客を紹介してもらっていたという。政界とのつながりを最大限に利用したわけである。また注目すべきは、大蔵省のノンキャリアの中堅幹部に「貸付金」と称して200万円を提供していたことだ。この中堅幹部は金を返したとされるが、結局は同省の内規による「訓告」処分を受けて2000年1月末に依願退職した。資金提供の目的は不明とされているが、きわめて不明朗な話である。

2014年11月7日金曜日

裁判費用はコストが度外視か?

普通の人はそれを聞いて「ひどいではないか」と言うのですが、これは一面的な見方です。弁護士に言わせれば、多人数で相当な労力をかけていますから、それでももらい足りないくらいでしょう。弁護士仲間かやりたくもない仕事でも、使命感、義務感だけからやむなく引き受けているという刑事弁護人の苦労たるや、半端ではありません。

そんな苦労をほとんど知らない世間からすると、「被害者の側は、弁護士費用はおろか、賠償金さえまともにもらっていないから、不公平だ」と言うのでしょう。しかし、コストのことだけを言うのであれば、被害者の側は、弁護士を使わない代わりに、検察・警察の人たちを動かしているのです。

その警察・検察を動かすために使っているコストは、弁護士の刑事弁護のために支払われた報酬どころではありません。どの刑事事件にしても、検察・警察にかける人件費などのコストは非常に大きいものです。それに比べたら、刑事弁護にかけられているコストなどは、全く微々たるものだと言わざるをえないでしょう。

しかし、検察・警察の活動を見る際には、コストが度外視されます。本当は正義を実現するにはとんでもなく費用がかかるにもかかわらず、それで何となく錯覚してしまいます。では、「被害者はかわいそうではないか、どうして被害者に賠償をしないのか」という問題はどうなるのか、と疑問を持たれるかもしれません。

2014年10月7日火曜日

デリバティブ取引の種類と特徴

デリバティブ取引の対象による分類、デリバティブ取引は、気象状況により生産量に大きな変動が発生する農産物の価格ヘッジから始まりましたが、その後、畜産物や貴金属、原油等のエネルギー物等にも裾野を広げました。そして、こうした商品を原資産とするデリバティブを一括して「コモディティ・デリバティブ」(商品デリバティブ)と呼んでいます。さて、価格変動が発生する商品は、なにも農産物をはじめとする商品群に限られた話ではありません。金融商品は、程度の差こそあれ、それこそ時々刻々と価格変動を繰り返しています。

そして、農産物一色の世界であったデリバティブーマーケットに大きな風穴を開けた金融商品が他ならぬ通貨先物です。1944年に構築されたブレトンウッズ体制は固定相場制を軸とするものでしたが、1971年のニクソンショックを契機として、各国は1973年に変動相場制(フロート制)に移行しました。ここで「価格変動あるところにヘッジニーズあり」との格言どおり、変動相場制となった外国為替相場を原資産とする通貨先物が誕生しました。そして、この通貨先物を皮切りとして、その後、財務省証券(国債)先物、金利先物、それに究極の先物ともいうべき株価指数先物が登場しました。こうしたさまざまな金融商品を原資産とするデリバティブを一括して「金融デリバティブ」と呼んでいます。この金融デリバティブを中心に話を進めていくこととします。

デリバティブのフロンティアは、このような伝統的な金融資産を原資産とする金融デリバティブにとどまりません。金融商品に付随する信用リスクを取り出して取引するクレジットデリバティブや、気象条件を原資産とする天候デリバティブ、さらには地球温暖化の原因となっている二酸化炭素を対象とする環境デリバティブ等、さまざまなデリバティブが登場しています。デリバティブ取引のパターンによる分類。それでは、ここでデリバティブ取引にはどのようなパターンがあるかを概観しておきましょう。デリバティブ取引は、先物取引、オプション取引、スワップ取引、それにこれら3種類の取引を適宜組み合わせた取引に大別することができます。

このうち、「先物取引」は、取引当事者間で将来売買する原資産の価格を現時点であらかじめ決めておく取引です。したがって、先物の買い手も売り手も、先物取引の期日が到来した時点の現物の時価がどうなっても、あらかじめ決めておいた価格でもって売買する義務を負うことになります。にれに対して、「オプション取引」は将来、原資産をあらかじめ決めておいた価格で買ったり売ったりすることができる権利の売買です。すなわち、オプションは選択権であり、オプションの買い手はあらかじめ決めておいた価格が自分の利益になる水準であれば権利を行使して、そうでなければ権利を放棄すればよいこととなります。これに対してオプションの売り手は、買い手が権利行使した時にはこれに応じる義務があります。

一方、「スワップ取引」は、将来の複数の日に資産を交換する取引です。すなわち、スワップ取引は、取引の当事者間で経済価値が等しいとみたキャッシュフローを、将来の一定期間にわたり交換する取引で、交換対象はコモディティから金利や通貨、株価指数といった金融商品等、多岐にわたっています。また、以上の3つのパターンのデリバティブを適宜組み合わせた商品も活発に取引されています。その典型例がスワップとオプションを組み合わせたスワップションです。デリバティブ取引には、取引所取引とOTC(店頭)取引があります。このうち取引所取引は、公認の取引所で取引されるものです。こうしたデリバテ子ブ取引所には、シカゴ・カンタイル取引所(CME)のようにデリバティブを専門に取引しているケースと、東京証券取引所や大阪証券取引所のように現物とデリバティブとを同じ取引所で取引しているケースがあります。

2014年9月6日土曜日

労働運動の後退

「私も英国進出には基本的に反対だが『絶対反対』ではない。今、でるのはやめたほうがいい、大きな損は不幸といっているもので、確信に満ちているわけではない。もしかしたら、でるほうがよいのかもしれないし、また、その望みもある」なにやら禅問答めいていて、捉えどころがない。しかし彼は、経団連副会長の立場から、彼とその後任の岩越前社長まで蜜月時代だった労使が、いまぎくしゃくしていることについて、塩路を牽制しはじめているのである。その後のマスコミでの塩路批判は、石原側からの猛攻であると同時に、川又塩路ラインにすきまが生じていることの反映でもあろう。

川又は、前述の「日経産業新聞」のインタビューで、重大な発言をしている。というのも、宮家初代自動車労連会長の名をあげ、現在の日産労使関係の礎を築いたのは塩路ではなく、宮家である、と強調したのである。宮家は『日産自動車社史』にはまったく登場せず、これまで歴史から抹殺されていた存在である。いまとなってその功績が顕彰されだしたことが微妙である。それが塩路の地盤がゆるんできたことを象徴しているように思える。

塩路の記者会見のあと、社内に怪文書が大量に流れた。「日産に働く仲間に心から訴える」とのタイトル。作成者は「日産係長会・組長会有志」となっている。「係長会・組長会」は。労使の中間にあって、これまでその接着剤の役割を果たしてきた。と同時にそれが塩路体制を支え、塩路の企業内での影響力をつくりだしていたのである。末端職制層から叛乱がはしまったことは、塩路にとっての一大事である。あたかも三〇年前、最強を誇っていた全国自動車労組・日産分会が川又ト宮家ト塩路のラインによって瓦解させられたときも、やはり職制層が反組合で活発に活動したのだった。

文書には、こう書かれている。「最近、塩路会長が会社の内外で行っている恥すべき行動は、日産の企業基盤を弱体化させるばかりであり、このままでは組合員の将来の生活すらおびやかす危険なものであると考え、生産現場の中核を担うべき我々の係長会・組長会のメンバーは、もうこれ以上、塩路会長の行動にはついていくことはできない、ついていくべきではない、と決意し、ここに立上りました」いまのところこの勢力がどれだけ力をもっているのか判断できない。しかし、社外での世論づくりと社内の危機感の増幅、それに、川又会長の談話を重ね合わせて考えると、かなりの組織だった攻勢であることを理解できる。

これまで労使一体化してきた企業でさえ、経営者と意見がくいちがうようになると、組合幹部への猛攻がはじまるのである。それが、労働運動の退潮を予兆させるものなのか、それとも現場からエネルギーを噴きだすことに作用するかどうか。社長の権力がより強められようとしている日産の問題は、けっして大企業の単組幹部にとっても対岸の火事ではない。

八六年二月、ついに塩路は自動車労連会長を辞任すると表明した。すでに同盟副会長の椅子も降りることを決定し、自動車総連(全メーカーの労組連合会)会長もクビになった。「フォーカス」などは彼の女性問題などのスキャンダルをなんどか扱っていた。労働貴族の影響力が弱まるのはいい。しかし、それがもっと無難な幹部にすげかえられただけで、労使一体化はさらに進む。彼をひきずり降ろした社長は会長となり、同友会代表幹事としての力をほこっている。この事件は、労働運動の後退を示すひとつのエピソード、として読まれるべきであろう。

2014年8月9日土曜日

不良資産を債権回収機構に移す

そこでまず、各企業に五〇〇〇万円までの借り入れには、無担保・無保証で公立の保証協会が保証をする、という制度をつくった。極端なばら撒き緊急対策である。第二は需要の拡大。そのためには超大型の補正予算を組んだ。投資が減り、消費も伸びない現実を打開するために、九兆円の減税と事業規模一八兆円の公共事業投資などを行った。

これまでも政府は、不況のたびに財政拡大を行ってきたが、その規模は小さく執行の時期は遅かった。諸外国から、日本の対策は(ツーリトルーツーレート示さ過ぎて遅過ぎる)と郷楡されたものだ。これに対して小渕恵三総理は、自ら「ツービッグーツーファースト(大き過ぎて速過ぎる)といわれたい」といい、大規模対策を早々に始めた。

そして第三には、金融構造の抜本的改革である。昭和五年頃から七十年以上にわたって「銀行は倒産させない、全部政府が保護する」という護送船団方式を採ってきたが、これを根本から見直し、債務超過の銀行は大小にかかわらず淘汰することにした。この結果、長銀や日債銀という一流の大銀行も破綻やむなしとなり、一時国有化された。

両行などの破綻銀行は、不良資産を債権回収機構に移したのち、再び民間投資家に売却した。また、第二地銀や信用組合などでも相当数の破綻が出た。かつては有力政治家や強力派閥に繋がるといわれた金融機関も、その多くが同様の方法で破綻処理された。すべて市場原理優先である。

一方、健全な銀行には公的資金を注入するとともに、統合合併を進めた。たとえば、さくら銀行と住友銀行が合併して三井住友銀行になる、富士、興銀、第一勧銀の三行でみずほクループをつくるなど、それ以前なら信じられないことが次々に起こった。弱い銀行も保護するという政策から、厳しい競争と淘汰を求めることで、日本に強い銀行をつくる方向へと政策を転換した。これによって日本の金融業界の仕組みは相当に変わった。

2014年7月18日金曜日

五〇年憲法による政党政治

五〇年代後半には、スマトラとスラウェシで地方軍部が中央に反旗を翻した。その背景として、正規の国家予算だけでは部隊を養えないために、軍がさまざまなサイドビジネスに手を出すという習慣が、この当時から広がっていたことが挙げられる。この時期に中ジャワ管轄の陸軍師団長だったスハルトが、師団のサイドビジネスをリムーシウーリオン(インドネシア名スドノーサリム)など華人企業家の手に委ねていたこと、そしてこのころにできた関係が、のちにスハルト政権下でリムーシウーリオンー族がインドネシア最大の企業集団(サリムーグループ)を築き上げる端緒となったことは、よく知られた話である。シンガポールと向かい合うスマトラのゴム農園地帯や、フィリピンに隣接しココナツ農園の多い北スラウェシでは、密輸が地方軍を養う財源と化していた。中央政府と地方軍の利害が鋭く対立する状態だったのである。

五六年一二月、西スマトラと北スマトラで発生した地方軍の州政府権力奪取行動は、翌年三月には北スラウェシにも波及、やがて中央政界での抗争に敗れたマシュミ党と社会党の一部指導者をも巻き込み、五八年二月には、西スマトラのブキティンギでの「インドネシア共和国革命政府」(PRRI)設立寝言、北スラウェシでの「全面的闘争」(プルメスク)宣言にまで発展した。スカルノの反帝国主義ナショナリズムをきらったアメリカのCIAが、これを背後で支援した。

このいわゆる外島反乱をきっかけに、五〇年憲法による政党政治は崩壊していく。政党政治の失態に不満を募らせたスカルノは、五六年一〇月には全政党解消論を唱えて、大統領の指導権強化への意志をあらわにした。独立後は政党に属さなかったものの、国民党を主な追随者としたジャワ出身のスカルノ大統領と、マシュミ党との関係が深いスマトラ出身のパック副大統領との提携は、政権を支える勢力均衡の象徴であったが、両者の間の溝は次第に広かった。五六年一二月にパックはついに副大統領を辞任する。スマトラで反乱が勃発したのは、その直後であった。

五七年に入り、スカルノはマシュミ党の反対を押し切って、「指導される民主主義」の標語のもとに政治の「全面改造」を提起する。従来の国会・内閣の他に、労働者、農民、軍人、企業家などの代表から成る「職能グループ」(ゴロンガンーカルヤ、つまり現在のゴルカルの前身)を加えた国民評議会を設けること、全政党・グループ代表を加えた挙国一致内閣を作ることがその骨子たった。既成政党の力をそいで大統領の指導権を強めるとともに、軍と共産党の政権参加と協力を取りつけることが、「指導される民主主義」なるものの内実であった。外島反乱による治安悪化を理由に非常事態を宣言したスカルノはその実現に突進りする。

2014年7月4日金曜日

安定成長時代に移行

昭和五十年代に入り安定成長時代に移行するにつれて、土地の高値安定と保有コストの上昇が定着し、こうした経済環境は地主の意識を「所有から利用へ」と大きく転換させ、土地信託を受け入れる土譲は徐々に醸成されてきました。そして五十八年秋、公共的な事業への民間活力導入の声を契機に土地信託は一躍脚光を浴びることとなりました。今回の構想は従来の延長線上にありながら、受託者による借り入れが明確に認められたことから、土地の診断、マーケットリサーチ、事業プランの企画、所要資金の調達、建物の発注、テナントの募集、そして建物の管理・運営に至るまで、いわばワンセットで信託会社が一貫して引き受ける形に拡充されたわけです。

とりわけ、地主が複数の場合には大きな威力を発揮します。委託者である地主は、土地の所有権を実質的に手放すことなく、また直接開発資金を用意せずに土地の有効活用を図り、安定した収益を信託配当の形で長期間亭受することができます。不動産事業のノウハウや経験のない人、別に本業があり不動産事業を営む時間、あるいはスタッフのない人、細分化している土地を統合して効率のよい共同事業をしたい人にとって、格好の仕組みといえましょう。高い地価が顕在化するおそれがないことも魅力の一つです。

土地信託は、昭和五十九年三月の第言万受託を皮切りに、順調に普及しつつあり、平成元年三月現在では千五百件(信託契約ペース)の契約が成立しています。その事業内容はオフィスビル、賃貸マンションなどが中心ですが、土地の規模、地価、立地条件ないしは周辺の環境を反映して、外人向け住宅、店舗、スポーツ施設、ファミリーレストラン、ハイテク研究所、工場団地施設など幅広い用途にまで広がっています。また、分譲マンションや宅地の造成分譲などの、いわゆる分譲型のタイプにも導入されています。

今後を展望すると、本格的な複数地主による共同ビル事業や再開発事業といった。点から面への展開と、現在遊休化している国公有地の有効活用のための信託の利用が、普及促進の大きなバネとなるものと予想されます。いずれにせよ、本格的な「事業執行型信託」の突破口を切り開いた商晶とみることができようかと思われます。

2014年6月19日木曜日

農政転換

国家権力機構を通じて農業余剰を搾り取り、これを原資として重工業化を展開しようという意図は、二十年余の苦闘を経て、なおみるべき成功をおさめることはなかった。農業余剰の徹底的な吸引により、農民の生活水準は長期間にわたりまったく上昇をみせなたった。

国営重工業は量的側面からみればたしかに顕著な拡大をみせ、たとはいえ、そのゆゆしい非効率性のゆえに、再生産のための資源を他部門に依存する体質を払拭することはできなかった。労働者の賃金上昇も、ついにはかなわなかった。

文化大革命の混乱をどうにか収束し、平時にもどって活況の周辺諸国をみわたし、わが身を顧みたとき、愛国主義的な党・政府指導部は、彼我のあいだに横たわる経済発展水準の隔絶に、そしてみずからの社会主義建設が達成した成果のあまりのみすぼらしさに、愕然たる思いに駆られたにちがいない。一九七八年一二月に開催された第一一期三中総を衝き動かしたのは、そうした深刻な危機意識であった。

そしてこの危機意識は、三中総にいたる「強蓄積メカニズム」の起点にあった農業部門に向けられ、まずはこの部門において多様な改革の試みが開始されることになったのは、当然のなりゆきであった。三中総コミュニケは、「当面、全党は農業をできるだけはやく発展させることに主要な精力を傾けねばならない。

なぜなら国民経済の基礎である農業はこの数年来ひどく破壊され、目下、総体的にいって非常に弱体だからである」、と率直にも事態を追認した。したがって改革のためには、「なによりもわが国のいく億農民の社会主義的積極性を引きださねばならず、経済的には彼らの物質的利益に十分配慮し、政治的には彼らの民主的権利を確実に保障しなければならない」、という精神をうたった。

2014年6月5日木曜日

危険因子の重複

高血圧症治療の目的は、高血圧によって起こる脳卒中、虚血性心臓病などを予防することです。単に血圧を下げれば高血圧症治療の目的を達成出米るのであれば、優れた降圧剤が多数開発された現在では難しいことではありません。しかし、降圧薬療法の効果を確認するために欧米で行われた研究の成績では、降圧薬療法により脳卒中は予想どおり減らすことが出来ていますが、虚血性心臓病(心筋梗塞と狭心症)に関しては予測の半分以下の減少しか認められていません。

その理由として種々の意見かあります。最も重要なものとして動嘔硬化が基礎にあって発症する病気の予防には血圧管理ばかりでなく、介併している頻度が高い動脈硬化の危険因子を改善する必要性が挙げられています。高血圧症は多くの例で、男性は四〇歳代、女性は五〇歳代で発症します。この年代になると、高血圧症患者が血圧だけ高いことは比較的少なく、肥満、高脂血症、糖尿病のいずれかを合併しています。この危険因子の重複、あるいは複合現象は、欧米においてインスリン抵抗性症候群などの概念が提唱される背景となっています。

米国の研究では白衣高血圧症と考えられる例でも血中コレステロール、中性脂肪が正常血圧例より高いことが報告されています。なぜ高血圧症患者に糖尿病など他の危険因了が合併するのかはまだ判然としていませんが、高血圧症患者では血圧管理だけですむ例よりも、血圧以外の危険因子にも配慮しなければならない例の方が圧倒的に多いことは誰しもが認めるところです。米国フラミンガムで三〇~四九歳までの男性五〇〇〇名以上を対象として行われた十年間の追跡調査(フラミンガム研究)は、血圧の高さは同じでも他の危険因子が多ければ多いほど虚血性心臓病発症率が高くなることを証明しています。

八年間の虚血性心臓病発症率は、最高血圧一九五でも総コレステロール一八五の時には千人中四六人(四・六%)ですが、最高血圧が一九五と同じでも総コレステロール三三五の時には同二○人(二一%)、耐糖能障害(糖尿病)を合併していると同三二六人(三二・六%)、耐糖能障害(糖尿病)を合併しているうえに喫煙をしていると同四丘九人(四五・九%)という高率に上ることを示しています。これは高血圧症、高コレステロール血痢糖尿病、喫煙が虚血性心臓病の重要な危険因子であることを証明する貴重なデータです。

2014年5月22日木曜日

均衡のとれた軍備削減

それが善意の主張であれ悪意の提案であれ、現実に核兵器や核兵器開発技術を持っているのは米国だけという状況で、他の国には核開発能力を認めないということは、米国の優位を固定化する以外の何ものでもないという政治的な効果をもつこと、これもまた、動かしがたい事実であるわけです。ですから、ソ連がこれを拒絶したのには理由があった。この場合、一国だけが核兵器を持っているという条件の下で、世界の他の国々の核兵器開発能力を事前に根絶するような、徹底した、しかし一方的な先取り的アプローチが、かえってソ連側の対米不信を強め、米ソ対立を激化する効果しか生まなかったのです。

次にまた同様な問題が出てくるのが、一九六一年に米ソが合意して発表したマックロイリン声明と呼ばれる、全面完全軍縮の原則に関する米ソ共同声明です。これは、一九五九年のフルシチョフの全面完全軍縮提案、それへの西側の対案などをふまえて作られたもので、米ソが合意して全面完全軍縮を提言したのは、戦後はじめてのことでした。それまでは、国連での交渉の前提は必ずしも軍縮ではなかったわけですから、その意味では、この世界全面完全軍縮の先取り提言はたいへん画期的な出来事でした。

ところが、それにつづいて米ソが具体的な条約草案をそれぞれに提案し、いったん議論がどのようにして全面軍縮を政策化し協定化していくかという点に及びますと、交渉が行き詰まってしまった。この。場合とくに米国側が強力に主張したことは、スウェートアン代表として当時軍縮交渉にあたったミュルダール夫人も指摘しているように、いかにして軍備管理を徹底させるか、軍縮を進めていくすべての段階で、いささかも相手側に違反がないような、水ももらさぬ管理体制をどうしてつくるかという点だったのです。

削減した軍備の査察検証だけでなく、まだ保有されている軍備の国際管理さえ要求する案だった。つまり、全面完全軍縮という全体的な先取りの方針が、完全国際管理体制の確立という局部的な先取りに一面化されてしまった。そうなれば、これに対してソ連側から、スパイとか内政干渉とかのおそれを理由とする反対が現われることは見えていた。こうして、全面完全軍縮という、原理的には正しい政治的なシンボルが、現実にはかえって相互不信を助長するという結果になってしまったのです。

その上、この全面完全軍縮案は、「均衡のとれた軍備削減」という表現にもみられるように、圧倒的な優位に立つ二つの軍事超大国が合意をして「均衡」を保つ半面、その優位を崩さないで世界中の刀狩りをするという側面ももっていたものですから、世界に対する米ソの一種の「共同支配」の確立という含みも免れなかったのです。さきほども問題になりましたが、中・仏の対抗的核政策が出てきたのはそういう間隙を縫ってのことですね。

それから、同じように未来の危険を局部的に先取りして軍備管理体制を固めようという動きがもう一度出てきます。それが核拡散防止条約です。これは、核保有五大国以外に核兵器が拡がらないようにする先取り的・予防的な管理体制であり、たしかに拡散するよりしないほうがいいのですが、しかし同時に、核保有国の既得権益や優位を維持するための管理体制だと見られてもしかたがない。これも本来核軍縮の問題とすべきことを拡散防止という局部的先取りに一面化したために、非保有国の反発が強まっているのが現状です。

2014年5月2日金曜日

自然

わが国の桜と紅葉は、日本ならではの美である。もちろん、日本ならではの美は、他にもいろいろあり、また日本ならでは、でなくても、美しいものはすべていい。そう思いながら私は、この日本中を覆う桜の美しさは、秋の紅葉と共に、日本人にとって、なんとうれしい自然の恵みであることか、と思う。だが桜の咲く期間は短くて、たちまち過ぎてしまう。

毎年、桜の開花情報を聞いて、名所と言われるところに行ってみようかな、と思いながら、ぐすぐずしているうちに、散ってしまう。けれども、名所と言われるような所には行きそびれても、桜を見ない年はない。都市によっては、違いもあるだろうが、東京は、街なかにも桜が少なくない。処々方々に咲いている。上野や千鳥が淵などへわざわざ出かけて行かなければ見られない、というものではない。私の仕事場のあるあたりはビルだらけで、まるで裸の土のない所だが、そんな所でも、すぐ近くにかなり大きな桜の木が一本あって、季節を伝え、眼を楽しませてくれる。

一本だけでも、大きいので見ごたえがある。港区保護樹木と書かれた札がかかっているから、切られることはなく、毎春花を咲かせることだろう。この一本桜は、今はもうほとんど花か散り、葉が出はじめているが、この一本桜の花見なら、行きそびれることはない。今年の桜は例年より開花の時期が長いのだそうだが、それでも、東京の桜はほぽ散ってしまった。これからは、福島や仙台が見ごろになるのであろう。東京は、桜が終わると街路樹の若葉の芽のふくらみが眼につくようになる。

都心で過ごす私は、一本桜で花見をしたり、街路樹の若葉の芽のふくらみ具合を観察したりしながら、細々と自然に付き合い、季節を感じて楽しんでいる。だが、やはりそんな程度では欲求不満になる。その不満が、ゴルフ場に行くと満たされる。今年は、一本桜の花見だけでなく、先日、ゴルフに出かけて、花見もたっぷりさせてもらった。ゴルフ場には桜のみごとなところが少なくない。

2014年4月17日木曜日

東アジアの構造調整

一九九〇年代に入るや、日本は厳しい経済低迷に見舞われ、東アジア諸国からの製品輸入、東アジア諸国への企業進出にかつてのような力はなくなった。ところが、これを補ってあまりある力を、実はNIESがASEAN諸国と中国に与えはしめたことが目される。すなわち近年のNIESもまた、内需主導型成長戦略に転じ、後発国の需要吸収者機能を強化しつつある。

加えて、NIESは後発国に対する大きな投資者としても有力な存在となった。その結果、NIESとASEAN諸国・中国とのあいだに補完的な関係がいちだんと強まっていった。台湾、香港、シンガポールといった在外華人国の場合、ASEAN諸国・中国の華人資本との連携が密であるというのも好条件となっている。実際のところ、香港・広東省を結ぶ「華南経済圏」、台湾・福建省を結ぶ「海峡経済圏」は、今日すでに「統合化」へのハーフウェイをはるかにこえてしまっている。

中国がその新戦略を、東アジアに渦まく激しい構造調整と貿易・投資構造の再編期に提起したのは、的確な判断だというべきであろう。趙紫陽は、さきの戦略表明のなかで、そうした東アジアの状況をたしかな好機ととらえ、「現在の好機を急いで生かすためには、沿海地域はこれに見合った発展戦略をもたなければならない。

全般的には、一億余から二億の人口をもつ沿海地域がしかるべき指導のもとで、計画的に、段取りを追って国際市場をめざし、国際的な交換と競争にいちだんと積極的に参加し、外向型経済を大いに発展させなければならない。これは戦略問題として対処されるべきである」、と表明した。的確な判断である。

改革・開放は、この十数年の過程で中国経済のなかにすでに強囚に「ビルトイン」されており、インフレや所得分配の不平等化に悩まされながらも、国民の大多数はこの路線の「受益者」なのである。「沿海地域経済発展戦略」は、これを長期的な視野からながめれば、中国近代化にとって他に代替策のない開発シナリオである。

「放」(改革積極派路線)と「収」(保守慎重派路線)をくりかえす、中国政治に固有の「政治サイクル」はなお避けえないにしても、中国がその国是である経済近代化を断念するのならいざ知らず、そうでない以上、結局のところ全体としての方向が沿海地域発展戦略の方向に収斂していくであろうことは、まちがいあるまい。