2013年12月25日水曜日

大臣のポストにも代え難い「政商」という旨味

海亀と同じく、朝鮮に帰国した在外朝鮮人も社会の変化に大きな役割を果たしている。朝鮮戦争が休戦となった時から七〇年代にかけて、地上の楽園と呼ばれた朝鮮を目指して夥しい数の在外朝鮮人が中国や日本、ロシア、東南アジアから帰国したのだった。その総数は百万人ともいわれる大移動だった。彼らは、故郷の朝鮮に巨額な資産を持ち込んだだけでなく、教育や医療福祉の分野でもその発展に大きく貢献したのである。九〇年代に入ると、朝鮮への帰国者は激減するが、それでも金正日に対する崇拝と強い グ社会主義への信仰から朝鮮を目指すものは毎年数十人という単位で現れヽその流れはいまも続いている。

事実、二〇〇六年末には、北京に長く暮らしていた在中国朝鮮人の代表的な人物が、中国社会に起きた変化と対朝政策に反発し、家族とともに平壌へと戻ったという例もある。では、朝鮮に帰国した在外朝鮮人たちは、帰国後にはどんな職業に就くのだろうか? そこにはいくつかのパターンがあるが、まず金政権から最も信頼された者たちは党や軍の情報機関に入り、情報工作員として働くことになる。そして次は政府系の対外友好団体で通訳や訪問団の案内役を務めるか、もしくは大学などの研究機関で外国語を教える教師や研究者となるのである。さらに、もし経済的に余裕のある者であればレストランを経営したり、会社を興して貿易業に勤しむというケースもある。

中国大使館の外交官から聞いた話によれば、日本から帰国した、ある五〇代の女性は、帰国後に平壌市内で小さなレストランを経営したというが、その店は朝鮮で最も早くカラオケの設備を導入して有名になったレストランなのだという。二〇〇六年末、このやり手帰国者の女性オーナーは、朝鮮で初めて生バンドをレストランに入れ、再び話題になった。毎日プロのバンドによる生演奏が行なわれたレストランは若者らの人気を集めて繁盛したのだが、間もなく当局による取締りの対象とされてしまった。だが、当局からは警告とちょっとした叱責があっただけで、楽器の没収もなく事は収まったという。九〇年代に中国などに留学した海亀たちのなかには、現在、朝鮮ではすでに地方行政の要職に就いている者も少なくない。また、開城工業園や羅津・先鋒経済特区といった特別区で、責任あるポジションにつく海亀も次第に増えつつあるという。

こうした海亀たちのなかには、社会の末端で経済が困窮する実情を目の当たりにしている者もいる。彼らは、地方経済を改善する重要性を痛感している。そして、純粋な責任感から党や中央政府に対し、資金援助や政策的な改善を求めようと、分権という考えに傾いている者が少なくない。分権の声は、各級の党の代表会議や人民会議といった正規のルートを通じて、指導部にも届けられるようになってきている。社会主義体制と経済的な事情により、朝鮮の海亀の数は、まだそれほど多くない。しかし、その存在と役割は、朝鮮社会の未来にとって深い意味を持つことだろう。彼らの存在がどれほど社会を変えるのかにっいこは、中国社会において海亀現象が果した役割の大きさをみれば明らかだろう。

大臣のポストにも代え難い「政商」という旨味。八〇年代の半ば、経済改革が始まってまだ間もないころ、中国社会で人々が頻繁に口にした二つの流行語があった。その一つが「政商」であり、もう一つは「太子党」であった。太子党とは、中央政府の最高指導層に属する実力者の、子供や孫を指して使われる言葉だ。彼らは親の七光りと威光を借りて傍若無人に振る舞い、また時には不正や違法な手段さえ平気で使った。そして、親の政治的権力をフルに活用し、莫大な財産を手に入れたのである。一方の政商は、国営大手企業や軍が直営する商社の、トップたちを指した言葉だ。彼らは国家公務員であり、また現役の軍幹部という、社会でも羨望の対象となる身分を持つ。