2015年3月7日土曜日

開き直りと脆弁

突き放した言い方をすれば、日本の財政赤字は寒帯地方の永久凍土のように、完済されることなく残り続けるであろう。財政当局はこれが「財政硬直化」につながるとして警鐘をならす。

国債発行を始めた当初、六〇年代の「硬直化キャンペーン」は主として社会保障費や教育費などの非投資的経費の構造的増加に矛先を向けていた。が、今日では国債発行自体、つまり国債の利子と償還のための支出、「国債費」が主要なターゲットとなっている。

これは二〇〇〇年度予算だと、約二十二兆円、一般会計予算の約二六パーセントに達する。社会保障費(約十六兆七千七百億円)、公共事業費(約九兆四千三百億円)など、本来の財政支出をはるかに上回る、最大の支出項目である。

九九年度予算に対する増加額(約二兆千三百億円)だけで、たとえば日本の対外政策の最大の「武器」である経済協力費(約九千八百億円)の二倍以上にもなる。過去の借金の尻ぬぐい(利払いなど)という後ろ向きの支出で予算の四分の一以上も食われてしまっていては、年々の財政需要に対処していくのに必要な弾力性が大きく損なわれる(「硬直化」する)というわけである。

ただ、事態がここまで進んでしまえば「財政の健全性」に対する見方も修正せざるを得まい。つまり、健全体の基準となる収支の均衡を、以下のように後退させたかたちで考えるということである。

すなわち、よほどの好景気が続かない限り考えることのできない国債残高の圧縮をとりあえず棚上げにする。つまりは年々の国債費を削減することは当分の間不可能とあきらめて、これを各年度予算に初めからあて込んでおく。

実のところ、毎年度の予算編成は、そのように行われている。「均衡」は、この国債費と年々の借金(国債発行額)との対応で考える。それは同時に、年々の本来の財政支出は、税収など本来の財政収入と均衡させるということである。

累積債務の巨大さに匙を投げたあげくの脆弁ともいえようが、倒産企業の建て直しに似たかたちで、さし当たり手のつけようのない累積債務とこれから否応なしに発生する利払い曹(国債費)を、囲いの中に入れてしまうのである。

とはいえこうした開き直りや誰弁は、急速なグローバリゼーションが進む国際経済社会にそのまま通るものでもあるまい。「国際社会」といえば、十年にもならない昔、日本が財政運営の健全化をはかろうとすることに「エゴイズム」と非をならしていた。

特に米国の政府やエコノミストは、日本の財政赤字が日本政府の主張ほど深刻なものではないとし、日本の経常収支の黒字減らしを財政拡大策に求める強圧をかけていた。今日掌を返したように、日本の財政の「不健全性」を難じている。

経済理論に基づく主張には傾聴すべきものもある。同時に国益や個々の省庁の権益保持を策したまがいものもある。「日本の財政の危機的状況」は、日本の国債の格付けを下げようとするような国際金融市場の現実に即して、深刻に受け止めねばならない。

が同時に、真に必要があるなら、財政の景気下支えはこの先も敢行すべきであろう。少なくとも、「巨大な財政赤字」にうろたえ、財政の健全化のみを求めて増税や歳出の削減を急ぐことは避けねばならない。そもそも、民間経済の健康状態から独立した財政の健全化など、ありようはずがない。