2016年4月7日木曜日

ヴェトナム女性の繊細さ

二〇〇七年二月、ハノイのかなり道幅の広い大通りを横断する時、ゆっくり歩く老婆の手を実に自然に引いて渡る若者がいた。あまり自然で清々しかったので、思わず声を掛けたことがある。「君のお婆さんなの」と聞くと、「いいえ。知らない方です。が、少し危なかしく見えたので、手を添えただけです」という答えが返ってきた。にこりと会釈をして、何事もなかったように立ち去る姿を見て、「日本では見られなくなった光景だな」と唸った体験がある。軽度の認知症になった母親をヴェトナムに連れてきて暮らし始めたら、病気の進行が遅くなったという話も聞く。ヴェトナム政府も現在交渉中の日越EPAの中に、ヴェトナム人の介護人を日本が受け入れる事項を提案中であると聞いている。

日本の事情をよく知っているヴェトナムの友人からは、「ヴェトナム女性の看護人の方が、フィリピンやインドネシア女性よりも日本人の老人のお世話をするには向いていると思う。ご飯を箸で食べるなど文化的により近いし、ヴェトナム女性はより繊細に行き届いた介護をすると思う。問題は言葉だ。日本語を習得して介護の基本を学べば、優秀な介護人になれる。それは、繊維や履物工場で厳しい勤めをするか、風俗営業に身を落とすかしかない、行き場のない若い農村出身のヴェトナム女性に明るい将来を約束することにもなる。是非日本がヴェトナム女性を介護人として教育して職場を提供するようなシステムを作ってくれれば、日本人のお年寄りにとってもヴェトナムの若い女性にとってもよい結果をもたらすと思う」と懇請された。

もう一つの日本からの新しい訪問者はヴェトナム株を購入するために証券会社に口座を開設しに来る人々である。前述のようにヴェトナムでは二〇〇五年から本格的な株ブームが起こり、○六年をピークとしてヴェトナム株が注目された。○七年下半期になると、あまりに過熱気味だったので、政府は抑制的な政策をとった。ちょうど、その時期と米国のサブプライムローン問題が重なって、ヴェトナム株は急落している。しかし、中長期展望では経済成長が見込めるので、ヴェトナム株に対する関心は衰えていない。

2016年3月7日月曜日

企業コンプライアンスの重要性

実際のところ、証拠をどしどし出させることには相当な抵抗かおりますから、これを自発的にやってくれるのを待っていたら、何十年、何百年かかるか分かりません。例えば医療ミスについては、「皆それなりに失敗を重ねるものだから、それに目くじらを立てていたら若い医師は育だない。

だから多少のミスには甘いこともあるかもしれない」と認めていた医師がいました。それで患者が死亡したとしても、とにかく医師の将来のため、病院の将来のために真相がうやむやになってしまうとしたら、本末転倒もいいところです。

そこはもっと透明性の高い場で、何か原因でミスが生じたのかを明らかにすべきでしょう。建築業界だとか、環境問題に直結する産業廃棄物処理の現場、あるいは行政の現場などにも同じことが言えます。それなりに対応を怠らず、事前の防止策もちゃんとしておけば、めったに訴訟になることはありません。

それでもトラブルが起きたときは、どこに問題点があったのかを明らかにするために、透明性の高い裁判で正すべきところを正す必要があるのです。結局、訴訟手続を使いやすくするからといって、誰もがすぐに「もめごと」に巻き込まれるわけではありません。どうにも許せない事件が起きたような異常事態において、責任をとるべき人のみが裁かれる対象となる、それだけのことにすぎないのです。

2016年2月6日土曜日

今なお君臨するドル

第二次大戦後、半世紀になんなんとする、この歴史的時間の経過につれて、アメリカ合衆国とそのドルほど大きく揺れ動いた国家と通貨は比類がないのではないか。

アメリカの最高の時代は一九四五年から五〇年代末までのわずか一五年にすぎなかった。五八年ころより米国国際収支の慢性的な赤字、ドルの対外流出、対外ドル債務の累増、そしてドルの弱体化は一貫して続くことになる。

一九四四年七月、米国ニューハンプシャー州の保養地ブレトン・ウッズでの連合国通貨金融会議において決定された、金・ドル連結による戦後の国際金融・通貨制度は、ドルが攻撃を受けるたびに動揺し、ドル不安は金価格のおさえようもない騰貴に直結した。

そして、ついに一九七一年八月一五日のニクソン大統領によるドルの金との交換性停止にいたり、ブレトン・ウッズ体制は完全に崩壊し、その幕を閉じたのであった。

もちろん、七一年一二月から七三年二月までのスミソニアン合意による一時的な固定相場復帰という一時の晴れ間はあったにせよ、七三年二月、三月からは全世界が変動相場制に突入し、現在にいたっている。

ドルはかくて金との結びつきを放棄して、他の通貨と同様、ドルの背後に何もない不安定な不換紙幣に転落した。しかし、腐っても鯛は鯛である。

ドルの没落と人はいうが、国際通貨として依然、世界に君臨しているのはドルであり、ドイツ・マルクやスイス・プランや日本の円がアメリカのドルの地位を脅かすなどということはありえな。いのである。せいぜい、補完的・脇役的なポストにいるにすぎない。

2016年1月9日土曜日

金融機関の破綻処理

九四年末から金融機関の破綻処理に取り組んだとき、大変困った。預金保険制度の通りに実行すれば、一〇〇〇万円を超える預金は、全額は戻ってこない。国民はそんなこととは夢にも思っていないから、大混乱が起るだろう。そこで九五年六月に、「五年間はペイオフしない(預金は全額保護する)、そのかわり五年以内に情報開示などペイオフができるように環境整備をする」との方針を打ち出した。

当時はむしろ、五年は長すぎる、もっと早くペイオフを発動しろ、との批判を受けた。ある評論家からは、この方針が不良債権処理を遅らせ、わが国の金融危機を招いた、とまでのお叱りを受けた。批判の背景には、庶民の小口預金は保護する必要があるが、金持ちの大口預金は切り捨てられても仕方がない、との感情がある。しかし困ったことに、金融システムにとって一番怖いのは、影響が大きく逃げ足の速い金持ちの大口預金なのである。感情論と政策論には大きなズレがあった。

アメリカでは銀行が破綻したときにはすべてペイオフされる、との誤解がある。しかし破綻処理のうちペイオフという極端な手法が適用されたのは、全体の五%程度である。しかもそれはわが国で言えば小さな信用組合程度の規模のものを対象としていた。拓銀や長銀のような基幹金融機関にペイオフを適用するなどということは、全く考えられていない。ごく最近では、金融情勢が改善されたこともあろうが、小規模のものの適用例もなくなった。

九五年六月に、五年後には預金保険法に定められている通りペイオフもできるようにしたい、と説明した。同時にその時、「ペイオフは経済社会全体から見てコストの大きな処理方式である。金融機関の破綻処理に際しては、基本的には、資金援助(合併など)の可能性をまず追求することが適当である。」との方針も明らかにしている。また、資金援助以外の破綻処理方式の多様化が必要とも考え、実際そのような制度はある程度整備されている。