2014年7月18日金曜日

五〇年憲法による政党政治

五〇年代後半には、スマトラとスラウェシで地方軍部が中央に反旗を翻した。その背景として、正規の国家予算だけでは部隊を養えないために、軍がさまざまなサイドビジネスに手を出すという習慣が、この当時から広がっていたことが挙げられる。この時期に中ジャワ管轄の陸軍師団長だったスハルトが、師団のサイドビジネスをリムーシウーリオン(インドネシア名スドノーサリム)など華人企業家の手に委ねていたこと、そしてこのころにできた関係が、のちにスハルト政権下でリムーシウーリオンー族がインドネシア最大の企業集団(サリムーグループ)を築き上げる端緒となったことは、よく知られた話である。シンガポールと向かい合うスマトラのゴム農園地帯や、フィリピンに隣接しココナツ農園の多い北スラウェシでは、密輸が地方軍を養う財源と化していた。中央政府と地方軍の利害が鋭く対立する状態だったのである。

五六年一二月、西スマトラと北スマトラで発生した地方軍の州政府権力奪取行動は、翌年三月には北スラウェシにも波及、やがて中央政界での抗争に敗れたマシュミ党と社会党の一部指導者をも巻き込み、五八年二月には、西スマトラのブキティンギでの「インドネシア共和国革命政府」(PRRI)設立寝言、北スラウェシでの「全面的闘争」(プルメスク)宣言にまで発展した。スカルノの反帝国主義ナショナリズムをきらったアメリカのCIAが、これを背後で支援した。

このいわゆる外島反乱をきっかけに、五〇年憲法による政党政治は崩壊していく。政党政治の失態に不満を募らせたスカルノは、五六年一〇月には全政党解消論を唱えて、大統領の指導権強化への意志をあらわにした。独立後は政党に属さなかったものの、国民党を主な追随者としたジャワ出身のスカルノ大統領と、マシュミ党との関係が深いスマトラ出身のパック副大統領との提携は、政権を支える勢力均衡の象徴であったが、両者の間の溝は次第に広かった。五六年一二月にパックはついに副大統領を辞任する。スマトラで反乱が勃発したのは、その直後であった。

五七年に入り、スカルノはマシュミ党の反対を押し切って、「指導される民主主義」の標語のもとに政治の「全面改造」を提起する。従来の国会・内閣の他に、労働者、農民、軍人、企業家などの代表から成る「職能グループ」(ゴロンガンーカルヤ、つまり現在のゴルカルの前身)を加えた国民評議会を設けること、全政党・グループ代表を加えた挙国一致内閣を作ることがその骨子たった。既成政党の力をそいで大統領の指導権を強めるとともに、軍と共産党の政権参加と協力を取りつけることが、「指導される民主主義」なるものの内実であった。外島反乱による治安悪化を理由に非常事態を宣言したスカルノはその実現に突進りする。