2014年6月19日木曜日

農政転換

国家権力機構を通じて農業余剰を搾り取り、これを原資として重工業化を展開しようという意図は、二十年余の苦闘を経て、なおみるべき成功をおさめることはなかった。農業余剰の徹底的な吸引により、農民の生活水準は長期間にわたりまったく上昇をみせなたった。

国営重工業は量的側面からみればたしかに顕著な拡大をみせ、たとはいえ、そのゆゆしい非効率性のゆえに、再生産のための資源を他部門に依存する体質を払拭することはできなかった。労働者の賃金上昇も、ついにはかなわなかった。

文化大革命の混乱をどうにか収束し、平時にもどって活況の周辺諸国をみわたし、わが身を顧みたとき、愛国主義的な党・政府指導部は、彼我のあいだに横たわる経済発展水準の隔絶に、そしてみずからの社会主義建設が達成した成果のあまりのみすぼらしさに、愕然たる思いに駆られたにちがいない。一九七八年一二月に開催された第一一期三中総を衝き動かしたのは、そうした深刻な危機意識であった。

そしてこの危機意識は、三中総にいたる「強蓄積メカニズム」の起点にあった農業部門に向けられ、まずはこの部門において多様な改革の試みが開始されることになったのは、当然のなりゆきであった。三中総コミュニケは、「当面、全党は農業をできるだけはやく発展させることに主要な精力を傾けねばならない。

なぜなら国民経済の基礎である農業はこの数年来ひどく破壊され、目下、総体的にいって非常に弱体だからである」、と率直にも事態を追認した。したがって改革のためには、「なによりもわが国のいく億農民の社会主義的積極性を引きださねばならず、経済的には彼らの物質的利益に十分配慮し、政治的には彼らの民主的権利を確実に保障しなければならない」、という精神をうたった。